老いてこそ 人生 花開く
私は今月81才になりました。
腰も痛くて接骨院に通っています。
夜も寝ている時、朝になるまでの間に3回もトイレに行く。
だから夜は熟睡できない。
夜3回も起きる人は、普通の人の2倍から3倍死亡率が高まると、Youtubeで見た記憶があります。
そんな状況だから、私は「あと一年でオレの人生も、終わりだ」 と思う気持ちで、
毎日を楽しんで有意義に過ごそうと決めて、
私のブログのタイトルを「老いてこそ 人生 花開く」というタイトルにしました。
残された人生を考える
残された人生、あと一年と思うと最近色々と考えます。
自分の人生で本当に大切なものは何か
過去生きてきた体験で、何が一番楽しかったか
何が一番生きがいを感じたか
何か一番人が喜んでくれたか
何が一番苦しかったか
その苦しさを乗り越えた時、どうなったか
苦しみはどうして私にきたのか
苦しみを考える時、私の人生に意味があっただろうか
私はまだ現役で仕事をしているから、まだ多少人の役に立つと思えるのだが、
もし仕事をしていなかったら…
どのように考えればよいだろうか…
たとえ仕事をしていなくとも、私なら誰かの支えになりたい。
私が存在していることで、誰かを励ますことができたら…誰かの支えになれたら…と考えます。
人は、何か仕事とか家事のお手伝いをしないと役に立たないと思っているが、決してそうではない。
私は、その人の生きてきた姿、心で、人と励まし勇気づけることが できると思っています。
ただ存在している価値
老人になって、介護をしてもらう状態になると、
自分は人に迷惑ばかりかけて、役に立っていないと、つい考えてしまいます。
何の役にも立たない、自分の存在している意味があるだろうかと悩み苦しんでしまいます。
人の命は役に立つから価値があるのではない。
人は、その人が、生きている、存在しているだけで価値があるのです。
ほとんどの人は、
何か仕事をしてしないと価値がない
自分の人生に意味ないと考えがちだが、自分の過去人生を振り返ってみると、違うキヅキが必ず見えてきます。
そして、そのキヅキが見えれば、自分の人生に意味があると考えられる時がきっと来るはずです。
私も自分の母親の介護をした経験があります。
介護施設に母親がいた時に、痴呆症と認定されてしゃべることもできませんでした
介護施設に母親がいた時に、痴呆症と認定されてしゃべることもできませんでした。
そんな時に、母親の見舞いに行ってやさしい言葉をかけたり、身体をさすってやったりすると、母親の目尻から、涙がにじんで出てくることがありました。
そんな時には、私の中にも、母親の想いに感謝する心が自然に湧いてきて、自分自身も涙が出てくる経験をしたことがあります。
その人がそこにいるだけで、
私の心に、なつかしさとありがたさと、
そこにいるだけで、母親の思い出が私の心ににじんでくるのであります。
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